森林文化学習会 12月

大地の五億年

R04年度学習会 ~生物多様性への理解~   [森林観察学習部会]

2022.12.2 12.15

藤井一至著「大地の五億年」を学習します。

12月の学習項目は以下の通りでした。
〇12月2日
第2章 土が育む動物たち:微生物から恐竜まで
土と生き物を繋ぐ森のエキス~ ……吉江
第3章 ヒトと土の一万年
土に適したヒト~ ……………………黒田

〇12月15日
第3章 ヒトと土の一万年
田んぼによる酸性土壌の克服~ ……井村j
第4章 土のこれから
土を変えたエネルギー革命~ ………定成

1月の学習予定
〇1月12日
第4章 土のこれから
ポテトチップスの代償~ ……………矢崎
あとがき…………………………………井村j

毎月このコーナーでは、学習した内容から、興味深い話題を抜粋して掲載していきます。

大地の五億年 第3章 人と土の 1 万年    黒田キミさん(会員)の資料より抜粋

土に適応したヒト
農業は自然破壊?
森林は土が酸性になるが、生態系全体としては養分が失われにくい仕組みを持っている。しかし、畑は収穫物の持ち出しによって、野菜や穀物が吸収したカルシウムやカリウムの分だけ土の栄養分が失われる。
人が食物として摂取し、しかも排泄物を畑に戻さないでいる限り、畑は栄養分であるカルシウムやカリウムを失い続け、土の酸性化が進む。
湿潤地では水(雨)に恵まれるが、土が酸性になってしまう問題(土壌酸性化)を抱えている。
一方、乾燥地の土壌はもともと養分が多いため、土壌酸性化の問題がおきにくい。
土の酸性化という農業の本質的な問題に対して、乾燥地を選ぶことで酸性化を回避した例が古代文明の灌漑農業であり、湿潤地で酸性土壌とうまく付き合うことを選んだ例が焼畑農業水田農業であった。

水と栄養分のトレードオフ
農耕の起源
森林の樹木は、幹を大きく硬くすることにエネルギーを投資するが、乾燥地の草原植生は子孫、つまり種子を多く残すことにエネルギーを投資する。この”草”の特性を利用して農業が始まった。
農耕の始まった1万年前の乾燥地(厳密には半湿潤地~半乾燥地)メソポタミアの農業文明を支えた「肥沃な三日月地帯」は、ユーフラテス川とチグリス川の三角州にある。夏は乾燥、冬は湿潤になる地中海性気候。
この気候下で育まれた草原には、栽培原種となるコムギ、大麦、まめなどがあった。栽培原種は生まれ育った半乾燥地の中性土壌に適しているが、酸性土壌には弱いから、酸性化を防ぐ必要があった。
栽培作物の原種の存在と肥沃な土、そして灌漑ができる大河の傍、これが初期の農耕文明の発達を促した。

古代文明の栄枯盛衰は土次第
土壌浸食と乾燥化
アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロの氷河に刻まれた気候変動の歴史を研究した結果、サハラ砂漠にはかつて緑に覆われた時期があった。しかし、今から 4000年前深刻な乾燥化が起こり砂漠となった。「緑のサハラ」を終焉させた4000年前の乾燥化は、古代の農耕文明にとってもターニングポイントとなった。
メソポタミアの遺跡から見つかったコムギ粒を、放射性炭素による年代測定で分析した結果、農耕の始まりは少なくとも1万年前まで遡ることが判明した。
水が乏しい半乾燥地で、ヒトは灌漑技術を発展させることで耕地面積、収穫量を増加させた。
食料の増加->文明の発展->国家の繁栄->人口の増加->食料のさらなる増産
人口は等比級数的に増加するのに対し、食料生産は等差級数的にしか増加しない。ここにヒトに端を発する「環境問題」の始まりがある。
今から4000年前、文明はほころびを見せ始める。
灌漑の失敗: 繁栄にともなう建築需要の増加は、日干し煉瓦だけでなく焼成煉瓦の生産を増加させた。煉瓦を焼くための大量の燃料の材として上流域の森林が伐採された。半乾燥地での森の復元力は弱い。森の保水力が低下し大洪水が起こる。洪水により土壌は流出、大量の土砂により灌漑水路は埋まってしまった。
この灌漑の失敗により、土壌に塩が析出し始めた。乾燥化がこれに拍車をかけ、水の蒸発や蒸散によって水が吸い上げられ、ナトリウムなど塩分を多く含んだ地下水が上昇し、地表に塩分が集積した。土壌の劣化は文明の破錠を意味する。

エジプトはナイルの溶存有機物の賜物
エジプト文明は7000年間にわたって継続されてきた。メソポタミアとの違いは、ナイル川に含まれる溶存有機物の供給である。
ナイル川は、エチオピア山岳地帯から流れる青ナイル川と、遠く中央アフリカのビクトリア湖から流れる白ナイル川が水源となっている。ナイル川の泥は、不毛な砂漠を肥沃な大地に変えた天然の肥料となった。エジプトはこの恵みを生かし、7000年間も持続した。
しかし、4000 年前の乾燥期には、氾濫規模が小さくなり土への水と養分の補給が十分でなくなり、内乱期が起きている。土と水はまさに死活問題なのである。
ナイル川のおかげで連綿と営まれた文明が決定的に破綻したのはつい最近である。アスワンハイダムの完成によって、灌漑農業が可能な耕地面積と電力生産が増加。その一方で、養分供給の経路が断たれ過剰な灌漑は塩分の多い地下水を上昇させ、土の塩類化をひきおこした。
灌漑の失敗による塩類集積の問題は世界中でおきている。乾燥地の灌漑農業は農地の土が宿命として持つ酸性化から人間を解放してくれるバラ色の側面と同時に、塩類集積という鋭いとげも併せ持っていることを古代文明は教えてくれる。

酸性土壌と生きるには
少数民族の焼畑農業
東南アジアの場合、熱帯林の下には強く風化した酸性土壌(強風化赤黄色土)が広がっている。このような土地では乾燥地に適応したひ弱な作物の栽培には適していない。ここでは、雨の多いアジアで生まれた比較的酸性に強いイネの栽培が行われている。酸性土壌での作物栽培を可能にした仕組みが焼畑農業である。
森林を伐採し、燃焼させた草木灰を肥料として作物を栽培する。草木灰はカルシウムやカリウムなどのアルカリ成分を含み、土の酸性物質を中和する中和剤となる。更に、農地として開墾する前の森林は畑と比較すると涼しいため土壌微生物の分解活性が畑よりも低く抑えられ、森の土には有機物が蓄積する。この有機物が土の肥沃度を高める。森林の時に蓄積した土の有機物が、酸性物質の中和に働く。これが、土壌の酸性化を食い止める焼畑の底力だった。
焼畑によって開墾した農地を使って陸稲を栽培し2、3年目となると、酸性化を跳ね返す力(有機物)も小さくなるし、土壌浸食も起こる。村人は数年もたてば耕作場所を移動する。耕作した場所はしばらく放棄し、森林や草原として土壌養分を回復させ(休閑)、5~10年後に戻ってきて再び燃やして利用する。
焼畑の森林.耕地サイクルは、森林の有機質肥料を利用して酸性土壌を中和する仕組みに裏打ちされている。

焼畑農業を変えた戦争
熱帯林を燃やす一面だけをとって環境問題ととらえられることも多いが、どうだろうか。特に、モン族はもともと焼畑をしながら移住する流浪の少数民族である。その生活スタイルのために、環境破壊の犯人に見なされてきた。しかし、人口に対して広い森林さえあれば、焼畑は持続的な伝統農業である。
焼畑農業が時に環境破壊となる問題の本質は、人口増加である。その土地が持つ焼畑による人口扶養力を超えてしまうのだ。しかも、多くの場合、そこには政治や経済がかかわっている。

(更新日 : 2022年12月28日)